ノノノート
お引越し編
暮らしていた部屋を去る時ノノは、夕暮れ時の空を眺めているような、もの寂しさと温もりをいつも味わうのでした。
パリの小さなアパートをひきあげる時など、去り際にサリューとアパートに話しかけて、螺旋階段を優しく撫でながら降りて行ったものでした。
暮らす場所と人は関係を結ぶのです。
ノノが今回新しいアパートへ引越しを決めたのも、そういった場所との結びつきがきっかけでした。
ちょっと変わってはいるのですが、ある時突然アパートがノノに囁きかけてきたのです。
ノノは今まで色んな場所に住んできましたが、アパートから囁かれたのは今回が初めてでした。
とある公園の側の坂道をノノが降っていた時のことです。後ろの方からぬぼーんとした声で
「ここにあなたが住むのも悪くないだろう」
という囁き声を聞きました。
ノノが振り返ると一件の古いアパートがそこに建っていました。誰かがバルコニーに立って喋っている、というのではなく、アパートがノノに個人的に、いや個体的に喋りかけているようなのです。
「悪くないって、どういうことでしょうか?」
ノノは、古いクリーム色のアパートの2階あたりを見ながらそう言いました。
「あなたがここに住んだなら、異国のアパートの話が聞けるのじゃなかろうか?」
古いクリーム色のアパートはそう言って、屋上のアンテナを鈍く光らせました。
「なぜ僕が外国のアパートのことを知っていると思われたのですか?」
「あなたは以前アパートに話しかけたことがあるだろう?そういう話は伝わってくるものなのだろう、良かれど悪しかれど」
アパートは微動だにせず、ぬぼーんとしたテンポを保ちつつそう言いました。
ノノは、アパートが隣のアパートに伝言ゲームでもするように、耳打ちする姿を思い浮かべながら言いました。
「ずいぶんと遠くまで、噂が届くのですね。海はどうやって越えたのですか?」
「そりゃあ、こうやって人間に話しかけるのが一番の方法なのだろう。私たちは動けないのだから」
どうやら、パリでノノが住んでいたアパートの話を誰かが東京まで運んでいたらしいのです。
ノノはここに移り住んでもいいが、「あなたも何か面白い話を聞かせてくれませんか?」と古いクリーム色のアパートにお願いをしました。
「誰にだって物語はあるものなのだろう」
古いクリーム色のアパートはそう囁きました。
引越しの日、街には風が吹いていました。
アパートの前までノノがやってくると、古いクリーム色のアパートは「あなたとはきっと腹を割って話が出来るだろう。あなたもそんな気がしているのだろう」と言いました。
ノノと古いクリーム色のアパートの生活が今日、始まろうとしています。